夜明け前の青白い光が、カーテンの隙間から部屋に忍び込んでくる。
この時間帯特有の、世界がまだ半分眠っているような静寂の中で、ふと思考が深淵へと沈んでいくことがある。
私たちは、仕事という営みの中で、常に「自由」を求めているような気がする。
決められたレールの上を走るのではなく、自分の色でキャンバスを埋めたい。 誰かの指示という譜面をなぞるのではなく、指先が感じるままに音を奏でたい。
そんな欲求が、胸の奥で燻っている。
けれど、自由という響きの甘美さに酔いしれるあまり、その裏側に張り付いている冷ややかな影を見落としそうになる。
自由を手にするということは、その手で「結果」という重たい果実をもぎ取るということだ。
檻から出された獣は、自分で獲物を狩らなければ飢えて死ぬ。 そこに、餌を与えてくれる飼い主はもういない。
企業という生き物もまた、シビアだ。 成果という果実が実らない大地に、水や肥料という名の投資を続けることはできない。時間は有限で、資源は枯渇する。
だから、自由と責任は、まるで光と影のように、切り離すことができない一対の存在なのだ。
働く者が「自由にやらせてほしい」と口にする時、そこには悲壮な覚悟が宿っている。 泥を被る準備、嵐の中で舵を取る覚悟。 それらが背中にのしかかることを承知の上で、それでも自身の翼で飛びたいと願う叫びだ。
しかし、その重みを理解しないまま、軽やかに「自由」を口にする人々がいる。
「君の好きなようにやってみていいよ」
その言葉は、一見すると信頼の証のように聞こえる。 温かいスープのように、冷えた心を溶かしてくれる優しさだと錯覚する。
けれど、時としてそれは、残酷な突き放しに他ならない。
道を示さず、地図も渡さず、ただ荒野へと背中を押す行為。 「自由に」という美しい包装紙で包まれた、責任の丸投げ。
それに気づいていない経営者が、あまりにも多い気がしてならない。
彼らは、自分の言葉が相手の肩にどれほどの重圧を乗せているか、想像できていないのかもしれない。 「任せる」と言えば聞こえはいいが、それは失敗した時の痛みを、部下に全て負わせるということと同義になり得る。
無知は、時に悪意よりも深く人を傷つける。
本を読んでほしいと思う。 歴史に学び、人の心の機微を知り、言葉の重さを知ってほしい。
「自由」という概念が、どれほどの血と汗の上に成り立っているのか。 それを知らずして放たれる「自由にしてください」という言葉は、働く者の心を静かに、けれど確実に殺していく。
そんな場所からは、誰もがいずれ立ち去りたくなるだろう。
本当に必要なのは、放牧のような自由ではなく、嵐の夜に遠くで光る灯台のような、確かな指針と覚悟の共有なのかもしれない。
白み始めた空を見上げながら、そんなことを思う。
自由は、どこか寂しい匂いがする。
自由は、不安を煽るのだと。