静寂が支配する深夜の部屋で、ふと手元のマグカップから立ち上る湯気を眺める。その揺らめきは、誰にも邪魔されない、極めて個人的な世界の象徴のようだ。
人は誰しも、心の奥底に自分だけの「庭」を持っている。
そこは、好きな色、好きな形、譲れない美学だけで満たされた場所。誰かが大切に磨き上げたこだわりは、本来、ガラス細工のように繊細で、その人の掌(てのひら)の中だけで輝く宝物なのだろう。
趣味の時間や、ひとりの夜に愛でるこだわり。それは自由という名の空の下で、誰に咎められることもなく、ただ静かに息づいていればいい。思想という名の風を、他人の庭にまで無理やり吹き込ませる必要など、どこにもないのだから。
けれど時折、その静けさを破る足音が聞こえることがある。
自分の庭の美しさを、さも世界の心理であるかのように語る声。頼んでもいないのに差し出される「こうあるべき」という地図。それは時に、自慢げな響きを伴って、こちらの鼓膜を揺らす。
期待していない贈り物を受け取った時のような、居心地の悪さ。 そこに込められた熱量が高ければ高いほど、受け取る側の心は冷えていくのかもしれない。それはもしかすると、共感を求めているのではなく、ただの押し付けという名の暴力に近い何かなのではないか。
その「こだわり」が仕事という舞台に持ち込まれたとき、事態はもう少し複雑な色を帯び始める。
職人が一つの器を焼き上げるように、細部に魂を宿らせることは尊い。その執念が、誰かの心を救ったり、素晴らしい成果を生むこともあるだろう。そこには確かに「善」の光が射している。
しかし、光が強ければ影もまた濃くなる。
ひとりの「こうしたい」という強い想いが、歯車のように噛み合うべき周囲のリズムを狂わせることがある。完璧さを求めるあまり、全体の流れを堰き止め、周りの人間を疲弊させてしまう風景。
それはまるで、美しい彫刻を作るために、土台となっている家そのものを削り取ってしまうような危うさを孕んでいる。
大切なのは、そのこだわりが誰のためのものか、ということなのかもしれない。
もしも、その細部への執着を貫き通すために、全ての泥を自分でかぶり、最後の始末まで一人で背負う覚悟があるのなら、それは「プロフェッショナル」と呼ばれる。誰にも文句は言わせない、孤高の美しさがそこにはある。
けれど、自分の理想だけを掲げ、そのために生じる歪みや重荷を他人に背負わせるのなら。 それはもはや美学ではなく、ただのわがままだ。
窓の外、夜明け前の空気が少しずつ青みを帯びていく。
一定のこだわりは、人生を豊かにするスパイスだ。けれど、覚悟を伴わないそれは、時に毒にもなり得る。
静かに思う。 **責任無きこだわりは、悪である、**と。
誰かの時間を奪い、心をすり減らしてまで守るべき「こだわり」など、この世界にはそう多くはないはずだ。湯気が消えたマグカップを置く音だけが、部屋に小さく響いた。