ディスプレイの青白い光だけが、深夜の部屋を静かに満たしている。
キーボードを叩く乾いた音が、一定のリズムで闇に溶けていく。 エンターキーを押し込んだ瞬間に指先へ返ってくる、わずかな抵抗と解放感。
それはまるで、深い井戸の底へ小石を投げ入れるような、頼りなくも確かな感触に似ている。
これまで、デジタルの海にいくつもの「家」を建てては、そのまま雨風に晒し、廃墟にしてきた。
流行りのプラットフォームにアカウントを作り、借り物の壁紙を貼り付け、数行の意気込みを書いて満足する。 けれど、そうして手軽に手に入れた場所は、日々の忙しなさに埋もれ、いつしかパスワードすら記憶の彼方へと流されていった。
インターネットのどこかには、主を失った言葉の残骸が、今も漂流物のように浮かんでいるのかもしれない。
だから今回は、あえて不便な道を選び、土台から自分で積み上げることにした。
便利なツールや、誰かが整えてくれた快適なサービスは溢れている。 note のような真っ白なキャンバスを使えば、ものの数秒で世界と繋がれる時代だ。
それでも、不格好なコードを書き、サーバーの設定に悩み、一つひとつレンガを積むようにこの場所を作った。 指先に残るその泥臭い感触こそが、この場所へ帰ってくるための「栞(しおり)」になる気がしたからだ。
画面の向こう側に広がる世界に魅せられて、もう二十九回の冬が過ぎた。
学生時代、ブラウン管の中で明滅するカーソルは、未知の宇宙への入り口だった。 それから長い時間をかけて、技術は魔法のような速度で進化し、私たちは膨大な情報の波に揉まれ続けてきた。
今や、AI が人間以上に流暢な言葉を紡ぎ出す時代だ。
問いかければ、最適解が瞬時に返ってくる。 隙のない論理、美しい構成、揺るぎない正解。 それはあまりに完璧で、そして、どこか冷たいガラス細工のようにも見える。
そんな時代だからこそ、ふと思う。 正解ではない何かを、ここに残したいと。
迷い、立ち止まり、時に論理矛盾さえ孕んだ、体温のある言葉。 効率や生産性という物差しでは測れない、心の機微や、季節の移ろいにハッとする瞬間のこと。
完璧な計算式の隙間からこぼれ落ちる、人間特有の「ノイズ」のようなもの。 そういった不確かなものの中にこそ、私たちが本当に守るべき温もりが宿っているのかもしれない。
ここは、誰かの役に立つための技術書ではないし、世界を変えるためのマニフェストでもない。 ただ、デジタルの奔流に流されないよう、一人のエンジニアが杭を打ち、ささやかな灯りをともすための場所だ。
行間には、今日という日の空気の匂いを。 言葉の端々には、迷いながら歩いてきた時間の重みを。
カーソルが点滅している。 それはまるで、まだ見ぬ誰かへの合図のように、あるいは自分自身の鼓動のように、次の言葉を待ち続けている。
かつて、プログラミングを学び始めたあの日に打った、最初の呪文を思い出す。 当時はただのテスト文字列だったその言葉が、二十九年の時を経て、今は祈りのように指先から溢れ出す。
「Hello world」
それは、ここから始まる新しい世界への挨拶であり、私が私として在るための、静かな宣誓なのかもしれない。