夜の底に沈殿するような、深い静寂の中にいる。
そんな真夜中の空白に身を置いていると、昼間には見えなかった言葉の輪郭が、ぼんやりと浮かび上がってくることがある。
コミュニケーションとは、なんと脆く、頼りないものなのだろう。
私たちが根を張ってきた土壌は、誰一人として同じではない。
ある場所では激しい雨が降り続き、別の場所では乾いた風が吹き荒れていたかもしれない。 吸い込んできた空気の味が違えば、見てきた夕暮れの色も違う。
そうやって積み重ねられた地層の上に、今の感性が成り立っている。 だから、同じ言葉を投げかけても、その響き方が異なるのは当然のことなのかもしれない。
繊細なガラス細工を扱うように、そっと差し出したニュアンスが、相手の手元で砕け散ってしまうことがある。
あるいは、投げやりな放物線を描いた言葉が、誰かの胸の奥に深く突き刺さり、抜けなくなってしまうこともある。
そのズレを前にして、立ち尽くす。
太陽が照りつける広場の中央で、誰に聞かれても構わない声で軽やかに語らう人がいる。 その一方で、何重にも鍵をかけた薄暗い小部屋でなければ、真実を口にできない人もいる。
あるいは、一瞬の閃きで事象のすべてを悟り、風のように先へと駆け抜けていく人がいれば、一つひとつの石を拾い上げ、その重さと冷たさを手のひらで確かめなければ、次の一歩を踏み出せない人もいる。
その速度の違い。温度の差。 光と影のように対照的な在り方が、同じテーブルの上で交錯する。
この混沌とした不揃いな世界で、どうやって調和を保てばいいのだろう。
互いに傷つかないよう、あるいは迷子にならないよう、白いチョークで地面に線を引くように、厳格なルールやガイドラインを設けるべきなのだろうか。
ここは歩いていい場所、そこからは立ち入り禁止、ここから先はマナーという名の通行手形が必要だ、と。 そうやって言葉に枠をはめてしまえば、きっと衝突は減り、効率という名の果実は手に入るのかもしれない。
あるいは、もっと静かな諦念と共に、別の道を選ぶこともできる。
自分と同じような歩幅で歩き、同じような色彩を好む人々の群れの中へ、身を移してしまうこと。
説明しなくても通じ合う安らぎ、阿吽の呼吸で満たされた温室のような場所。 そこでは、言葉の棘に刺されることもなく、鏡に映った自分自身と会話をしているような、穏やかな午後のまどろみが約束されているだろう。
そこには、摩擦もなければ、苛立ちもない。
けれど、整えられた調和の中に身を置くことを想像したとき、ふと、胸の奥に小さな隙間風が吹くのを感じる。 あまりに静かで、あまりに滑らかすぎる世界は、どこか味気なく、彩りに欠けているような気がしてならない。
結論など、夜明け前の空のように曖昧なままでいい。
ただ、噛み合わない歯車が軋む音を聞きながら、それでも違う形をした誰かと向き合うこと。
理解できない思考回路に驚き、想定外の反応に戸惑い、時にはその遅々とした歩みに唇を噛みながらも、異なる色彩がぶつかり合うその瞬間にこそ、生きた心地が宿る。
均一な音色だけでは描けない、複雑で、厄介で、だからこそ愛おしい不協和音。
そんな凸凹な感性を持った他者と共に、正解のない問いを追いかけ、泥臭く汗をかく時間。 それこそが、何よりも代えがたい、仕事という営みの「楽しさ」なのかもしれない。
東の空が、わずかに白み始めている。 今日もまた、分かり合えない誰かと出会うために、朝を迎えるのだろう。