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天秤の針は、真ん中でなくていい

2025-12-03works

夜明け前。 世界がまだ、青黒い静寂に包まれている時間。

コーヒーの湯気が、淡く立ち昇るのを眺めながら、 ふと「均衡」という言葉の重さについて考える。

どこもかしこも、声高に叫ばれる言葉がある。 「ワークライフバランス」。

仕事と生活。 その二つを天秤にかけ、水平に保つことが正義であるかのような響き。

けれど。 その天秤の針を見つめれば見つめるほど、 心のどこかに、小さな棘が刺さったような違和感が広がっていく。

私たちが求めているのは、本当に天秤の水平なのだろうか。

いや、そもそも人生という時間は、 切り分けて重さを量れるような、固形物ではないはずだ。

それは流れる水であり、 移ろう季節のようなものなのだから。

もちろん、労働という営みと、個人の安らぎの時間、 そのどちらもが、生きるうえで欠かせない両輪であることに疑いはない。

誰かのために汗を流し、知恵を絞る時間は、 自己の輪郭を確かめるための、尊い熱を帯びている。

一方で、誰の目も気にせず、 ただ雨音に耳を傾けたり、大切な人とスープを分け合ったりする時間は、 摩耗した魂を潤す、慈雨のようなものだ。

どちらも、等しく尊い。

だからこそ、問いかけたくなる。 なぜ、その配分を他者に決められなければならないのか。 なぜ、「バランスよく」あることが、唯一の正解として押し付けられるのか。

「今は、バランスなんて取りたくない」

そう叫びたい夜が、きっと誰にでもある。

何かに憑かれたように没頭し、寝食を忘れて創作に打ち込みたい季節。 その熱狂の中でしか見えない景色がある。

心臓が早鐘を打ち、アドレナリンが血管を駆け巡るような日々。 それは決して「不健康」という一言で片付けられるものではなく、 命が激しく燃焼する、美しい瞬間なのかもしれない。

逆に、何もかも手につかず、 ただ泥のように眠り続けたい季節もあるだろう。

枯れ木のように静まり返り、春の芽吹きを待つ冬の時間。 それを「怠惰」と呼ぶのは、あまりに浅はかだ。

人の心には、潮の満ち引きがある。 嵐の日もあれば、凪の日もある。

それなのに、すべてを「平準化」し、 一年中同じペースで、同じ配分で生きろというのは、 自然の摂理に反する行為のように思えてならない。

押し付けられたワークライフバランスは、もはや優しさではなく、 形を変えた束縛だ。

それは、個々の魂が持つ固有のリズムを無視し、 「平均的な幸福」という無機質な箱に閉じ込めようとする、 ある種の暴力性を秘めている。

「バランスを取ろう」と諭す人々の瞳の奥には、 本当に、目の前の相手が見えているのだろうか。

その人が今、燃え上がりたいのか、それとも羽を休めたいのか。 その内なる声に耳を澄ませることなく、 ただ「制度」や「一般論」という定規を当ててはいないだろうか。

本当の自由とは、天秤の針を真ん中に合わせることではない。

どちらにどれだけ傾けるかを、 自分自身の手で、選び取ることだ。

仕事に全重力をかける月があってもいい。 プライベートという海に深く潜り、一切の連絡を絶つ週があってもいい。

その歪(いびつ)さこそが、 その人らしさという輪郭を描き出す。

そろそろ、この「ワークライフバランス」という言葉を、 静かに手放してもいい頃合いなのかもしれない。

その言葉があるから、 私たちは無意識のうちに「どちらかを犠牲にしている」ような罪悪感を抱いてしまう。

仕事に熱中すれば、生活を疎かにしたと悔やみ。 休みをとれば、仕事への遅れを案じる。

そんな呪縛は、もういらない。

窓の外。 空の色が、群青から茜色へと滲み始めた。

今日という一日を、どう使うか。 どの熱量で生きるか。

それは、誰かに管理されるものではなく、 自分の呼吸と同じように、自然に決めていいことなのだ。

ただ、自分の心の波音に従うこと。

それが、私たちが本来持っている、 時間の使い方という名の、自由なのかもしれない。