夜明け前。 世界がまだ、青黒い静寂に包まれている時間。
コーヒーの湯気が、淡く立ち昇るのを眺めながら、 ふと「均衡」という言葉の重さについて考える。
どこもかしこも、声高に叫ばれる言葉がある。 「ワークライフバランス」。
仕事と生活。 その二つを天秤にかけ、水平に保つことが正義であるかのような響き。
けれど。 その天秤の針を見つめれば見つめるほど、 心のどこかに、小さな棘が刺さったような違和感が広がっていく。
私たちが求めているのは、本当に天秤の水平なのだろうか。
いや、そもそも人生という時間は、 切り分けて重さを量れるような、固形物ではないはずだ。
それは流れる水であり、 移ろう季節のようなものなのだから。
もちろん、労働という営みと、個人の安らぎの時間、 そのどちらもが、生きるうえで欠かせない両輪であることに疑いはない。
誰かのために汗を流し、知恵を絞る時間は、 自己の輪郭を確かめるための、尊い熱を帯びている。
一方で、誰の目も気にせず、 ただ雨音に耳を傾けたり、大切な人とスープを分け合ったりする時間は、 摩耗した魂を潤す、慈雨のようなものだ。
どちらも、等しく尊い。
だからこそ、問いかけたくなる。 なぜ、その配分を他者に決められなければならないのか。 なぜ、「バランスよく」あることが、唯一の正解として押し付けられるのか。
「今は、バランスなんて取りたくない」
そう叫びたい夜が、きっと誰にでもある。
何かに憑かれたように没頭し、寝食を忘れて創作に打ち込みたい季節。 その熱狂の中でしか見えない景色がある。
心臓が早鐘を打ち、アドレナリンが血管を駆け巡るような日々。 それは決して「不健康」という一言で片付けられるものではなく、 命が激しく燃焼する、美しい瞬間なのかもしれない。
逆に、何もかも手につかず、 ただ泥のように眠り続けたい季節もあるだろう。
枯れ木のように静まり返り、春の芽吹きを待つ冬の時間。 それを「怠惰」と呼ぶのは、あまりに浅はかだ。
人の心には、潮の満ち引きがある。 嵐の日もあれば、凪の日もある。
それなのに、すべてを「平準化」し、 一年中同じペースで、同じ配分で生きろというのは、 自然の摂理に反する行為のように思えてならない。
押し付けられたワークライフバランスは、もはや優しさではなく、 形を変えた束縛だ。
それは、個々の魂が持つ固有のリズムを無視し、 「平均的な幸福」という無機質な箱に閉じ込めようとする、 ある種の暴力性を秘めている。
「バランスを取ろう」と諭す人々の瞳の奥には、 本当に、目の前の相手が見えているのだろうか。
その人が今、燃え上がりたいのか、それとも羽を休めたいのか。 その内なる声に耳を澄ませることなく、 ただ「制度」や「一般論」という定規を当ててはいないだろうか。
本当の自由とは、天秤の針を真ん中に合わせることではない。
どちらにどれだけ傾けるかを、 自分自身の手で、選び取ることだ。
仕事に全重力をかける月があってもいい。 プライベートという海に深く潜り、一切の連絡を絶つ週があってもいい。
その歪(いびつ)さこそが、 その人らしさという輪郭を描き出す。
そろそろ、この「ワークライフバランス」という言葉を、 静かに手放してもいい頃合いなのかもしれない。
その言葉があるから、 私たちは無意識のうちに「どちらかを犠牲にしている」ような罪悪感を抱いてしまう。
仕事に熱中すれば、生活を疎かにしたと悔やみ。 休みをとれば、仕事への遅れを案じる。
そんな呪縛は、もういらない。
窓の外。 空の色が、群青から茜色へと滲み始めた。
今日という一日を、どう使うか。 どの熱量で生きるか。
それは、誰かに管理されるものではなく、 自分の呼吸と同じように、自然に決めていいことなのだ。
ただ、自分の心の波音に従うこと。
それが、私たちが本来持っている、 時間の使い方という名の、自由なのかもしれない。