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誰も知らない自分の居場所

2025-12-12works

カーテンの隙間から、まだ微睡んでいるような月の光が滑り込んでくる。
世界が深い静寂に包まれる、そんな時間にこそ、ふと足元を見つめ直したくなる瞬間がある。

「いい環境」とは、一体どのような景色を指すのだろう。

誰かの羨望を集めるような、高い塔の上にある輝かしい場所だろうか。

あるいは、潤沢な水が流れ、果実がたわわに実る楽園のような場所だろうか。

私たちの視線は、つい、隣の芝生へと向かってしまう。

他者の庭は、いつも自分より鮮やかな青に染まっているように見える。
だが、その光景が、レンズを通して誇張された幻影に過ぎないことは、往々にしてある。

高い給与や、優雅に見える肩書。それらは確かに心地よい風をもたらす要素かもしれない。

人間的に成熟した人々の集いや、卓越したスキルを持つ集団に身を置くことも、自己を磨くための美しい砥石になるだろう。

しかし、「いい環境」の定義は、季節の移ろいのように、個々の内なる状況によって常に形を変えていく。

ある人にとっては、呼吸をするような静けさが最良であり、またある人にとっては、熱を帯びた議論の渦中こそが求められる場所なのかもしれない。

それなのに、私たちはあまりにも安易に、遠くの誰かの言葉を鵜呑みにしてしまう。

「こうあるべきだ」という、硬質な型に自分を押し込めようとする。

それは、誰かの手で完璧に整えられた庭園を歩くようなものだ。
そこに整然とした美しさはあっても、心からの安らぎが宿るとは限らない。

本当に大切なことは、まず自分の手のひらにある石の重さを知ること。

自分がどんな光を欲しているのか、どんな空気が必要なのかを、内なる声に耳を澄ませて問うことだ。

そして、その問いへの答えが朧げながらも見えてきたなら、あとはただひたすらに、目の前の世界を自分の望む色へと塗り替えていけばいい。

微かな違和感を丁寧に拾い上げ、改善という名の種を蒔き、静かに水をやり続ける。

今日、椅子に敷いたクッションの角度を変えること。

明日、会議での発言に、少しだけ自分の本質を混ぜてみること。

その地道な、そして誰にも気づかれないような手触りのある努力の積み重ねが、やがて確かな実を結ぶ。

いい環境は、自分で作り出す。

この真理は、私たちの内なる灯台が指し示す、ひとつの確かな方角なのかもしれない。

もちろん、長い時間をかけて耕しても、手の施しようのない荒野もあるだろう。

その時は、次の安住の地へと静かに歩みを進める勇気も必要だ。

だが、場所を変えることは、それまでの土作りの記憶を、一度ゼロに戻すことにもなりかねない。

新しい土地で、また一から、空気の匂いを確かめ、土の感触を覚え直す必要がある。

自らが望む環境を構築するプロセスに、早すぎるゴールテープはない。

それは、一年後かもしれないし、十年後かもしれない。

途方もない旅路のように感じる夜もあるだろう。

けれど、その速度や形を決めるのは、他ならぬ、今、この静寂の中で呼吸をしている自分自身の中に眠っている力なのだ。

その可能性を信じることが、夜明け前の静かな希望の光となって、心に灯るような気がする。